2015年3月12日

対談 明日の東北への知見 松岡正剛×加藤登紀子

 東日本大震災から4年が経ち、基幹インフラの復興が目に見えるようになって、まちの未来に思いを至らせる段階にきたといわれます。そこで、これから本格化する東北のまちづくりへのヒントとして、編集者の松岡正剛さんと歌手の加藤登紀子さんに、ご自身の体験などから知見をいただければと思います。
 加藤 震災で本当に失ったもの、取り戻さなければならないものについて、真剣に考える前に、復興を開発や再開発という文脈で考えてしまうっていうのが気になりますね。阪神・淡路大震災復興後、たくさんの商店や住宅が密集していた長田地区に巨大なマンションができても、入居者が少ないというのがニュースになりましたが、これを繰り返してはならないと思うんですね。
 松岡 日本では、跡形を消したさら地にまったく別のものをつくるということが日常化し、社会インフラに対する価値観が変わってしまいました。ですから、衝撃の記憶も消されることが多い。失われた10年と言われますが、自分で失っているのだという感じがしています。
 加藤 記憶の話で言いますと、大津波の被害を受けた石巻市の大川小学校が、存続か取り壊しかで揺れています。私は二度行っているのですが、すごく素敵なしゃれた学校でね。建物自体が円形で、その奥にプールと野外劇場があって、野外劇場の壁には宮沢賢治の作品で、『銀河鉄道の夜』の列車などを描いた子どもたちの壁画が震災前のまま残っています。学校全体が一枚の絵のようでした。劇場の先に小高い山があって、一部分が山崩れのようになったままの斜面があります。それは震災前からだということです。だから、震災の時に、地元の人が「山には逃げるな」と言ったと聞き、それが私の胸に焼き付いています。
 松岡 必ずそういう共同体の記憶とかトラウマと新しい事故に対する恐れとがまざり合って、いろんな失敗や、次の体験になるんです。あの辺は少年が一人落ちた川だとかというニュースがちょっとでもあると、それが川を意味付けます。柵を作らなかった責任者も問われる。そうすると、ほかの人の行動とか、その共同体が次の行動を生みにくくなります。こういう例はいっぱいありますよね。ただ、阪神・淡路大震災のような巨大な災害を体験したにもかかわらず、その「学習力」は落ちてきていると思います。
 加藤 宮古市の田老地区の防浪堤(防潮堤)にもそうした学習力の功罪があるような気がします。震災後も残った1957年完成の防浪堤は、圧迫感もなくきれいな曲線を描き、裾野が広くて美しいんです。でもその後、外側に街ができ、最初の防浪堤とX(エックス)状に防潮堤を建設したんですね。今回はその防潮堤が木っ葉微塵になりました。学習する力が落ち始めてきたのはいつごろからなのかと考えると、高度経済成長期だと思います。時代が前に向かうことが最優先され、いわゆる思考停止の状態になってしまったんでしょうね。
 
松岡 高度経済成長期に学習力が途絶え始めたというのは、加藤さんの言われるとおりで、なぜそんなことになったのかというと、3つ考えられると思います。1つは、組織の中の事故の責任を問えばクリアするという社会体制です。2つ目は、本来は結びついている人間の体験と技術が別々になってしまったこと。例えば、交差点を渡るという簡単な体験でも、交差点の信号技術や車の速度など、いろいろなものがそこに重なっているということが、一瞬にして感じられる。でも、そういう体験と技術を切り離していったような気がします。専門分化ですね。3つ目が、事故などのことを再表現する能力がものすごく落ちた。阿蘇山が噴火した58年に書かれた子どもたちの作文を読んだのですが、見たままが書かれていて関心しました。「山が猛る」とか「鬼のげんこつで阿蘇が暴れた」とか、いろいろな表現がある。しかし、残念ながら東日本大震災後に書かれた子どもたちの作文は、簡単には言えないのですが、一様なのです。ぼくのような仕事をしている者からすると「あれっ、これは大人たちが本当に生きた言葉を語ってこなかったからなのじゃないのかな」という気がするくらいです。事故体験の再現力に現れてきた。これは東北だけに言えることではないのだと思います。
 加藤 私は毎日小学生新聞に載った小学6年生の日記を基に『青いこいのぼりと白いカーネーション』という曲をつくりました。その子は正確に自分の心の内面も含めて書いている。これだけの日記を書けたのは、もちろん本人の感性もあるでしょうが、新聞社が指導をして壁新聞をつくっていた子だったからというのを後で知りました。大人の指導のあり方も大切ですね。